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養老孟司「遺言。」

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養老孟司「遺言。」を読んだ。

意識と感覚のバランスについて著者の考えが綴られている。感覚は脳に対してあらゆる物事を違ったものとして訴えるが、意識はそれを抽象化して同じものと捉えようとする。都市化、グローバル化、デジタル化は意識の集合体によるもので感覚を遮断しようとする。ヒトはそれとは気付かずに、ほとんど意識だけの世界で生きている。そのことに気付いてみてはどうか、という話。

養老孟司のことは、以前はほとんど名前しか知らなくて、NHKのネコメンタリーという番組でちゃんと知った。何度か再構成されたり続き物としてやっている番組を見たが、その中で出てきた話題が、本書にはより詳しく書かれていた。動物は音の高低で互いを認識するが人間は言葉でもって互いを認識する。世界に一つだけの花というが世界に一つとして同じ花なんてものはない。ヒトはあらゆるモノを同じにしようとする、それがグローバリゼーションの根本である、など。もしかしたら収録時期と執筆時期は近いのかもしれない。

著者の書く文書は、話がコロコロ変わるのだけど読みやすくて小気味よい。人生濃く過ごした知識が詰まっていると感じる。言い聞かせるような物言いにしても、知識に裏打ちされているので、むしろ好ましく感じる。

2章に「すべてのものには意味がなければならない、さらにその意味が自分にわかるはずだ、という暗黙の了解がある」という一文があり、ハッとなった。以前にトライアローグ展で現代アートを観た際に自分が受けたショックが何だったのか改めて説明されたような気がした。結局は感覚としてどう受け取ったかよりも、どんな意味があるのかとどうしても考えてしまう。理解できなかったから自分にとっては受け入れがたい存在になってしまったのだろう。

意識はあらゆるモノを同じにしようとする、というのは腑に落ちる話だった。仕事柄、物事を抽象化して捉える作業も多い。自分の興味の幅が狭いのも色々な物事に対して、こういうもの、というラベリングをしがちなのかもしれない。

全部ではないが、概ね頷ける話だった。改めて自分を省みると、都市の中で感覚を遮断して変化を嫌い、どちらかというと降ってきた出来事だけをうまくやり過ごす毎日を過ごしていると感じる。「実生活の中で感覚を取り戻すのも難しい世の中になった」という。どういう意味があるのか、よりも自分がどのように感じたかをもう少し素直に認識するように努めようと思う。

自分はしばしばスマートフォンやインターネットがなくなってもっと自分の感覚で物事を捉えたり考える世界になればいいのに、と感じることが多々ある。でも現実はそうではない。現実がそうでなくても自分の感覚で物事を捉えたり考えることはできるはずだとは思う。でも実際はそうなれていない。難しいなあ。